2021/10/14

2021年度PPA特別コンテンツ03【座談会】メディアプラクティスをめぐる相互批評

2021
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参加メンバー:板坂留五(RUI Architects)、竹内吉彦(AS)、山川陸(山川陸設計)、桂川大(alt_design studio)、春口滉平(山をおりる)


実践と批評

春口|今日は、セッション28「「メディアプラクティス」としての建築は可能か?」の参加者のなかから、都合の合った5名が(オンラインですが)あらためて集まりました。パラレル・セッションズ2021として、過去のセッションから2名ずつの寄稿を集めたアーカイヴコンテンツを企画されたと、事業委員の辻さんと川勝さんから連絡をいただいたわけなんですが、無理をいってこの座談会のコンテンツを掲載させていただくことになりました。

ぼくは2019年のセッション当時、議論の内容について「メディアプラクティスとは、ある実践において、他者と自己を行き来するための方法論であ」り、それらを評価するために「各自で実践をつづけ、それを持ち寄り、相互批評する場の必要性が表面化された」のだと振り返っています。いま現在におけるセッションテーマへの回答を提示するのであれば、やはりみなさんの実践を通してしか示すことはできないのではないかと思い、このような機会を設けていただくことになった、というのが今回の経緯です。

桂川|セッションリーダーの伊藤さんが不在なのは残念ですが、セッションから2年、みなさんがどんな実践をしてきたか、コロナ禍を経て変化があったのかなど、いろいろ伺うのがたのしみです。


施工のメディアプラクティス

山川|ぼくはこの1年半、ぜんぜん建物をつくってないんで、つくってる人から口火を切ってください(笑)。

春口|建物の話じゃなくてもいいじゃないですか(笑)。

竹内|建物をつくる実践とそうでない実践のあいだでも、共通点が見えてくるといいよね。

山川|直近では、セッション参加者のみんなで、竹内さんが設計を担当したASの《ルイ・ヴィトン 銀座並木通り店》(以下、LV並木)を見学したよね。2019年のセッションのときに話していた《十日町ブンシツ》(以下、ブンシツ)の話と比べると、ぜんぜんちがう実践だなという気もする。両方やってどうでした?

竹内|振り返ると、《ブンシツ》よりも《LV並木》のほうがメディアプラクティス的だったなと思う。「メディアプラクティス」って、なんとなく共通の認識はあるけど、定義を共有しているわけではないから、いろんな解釈ができておもしろいよね。とはいえ、土台がないと一緒に議論できないなと思ったので、当時の議論を思い出しつつ、いまの自分なりに言語化してみると、こんな感じになりました。

「メディアプラクティスとは、自己が直接関与しえないある目標に対して、その目標に直接関与しうる他者との間で実践を重ねることで、間接的に作用を促す方法」

竹内|まず自分が直接扱えない領域があるというのがまずひとつ重要。それに触れないままやっていくことも(これまでの建築家の立場として)ありえるけど、直接は関与できない領域に踏み込むためのひとつの方法論として、直接関与できる他者の存在をその領域との間に取り込むことで、自分が間接的にでも影響を与える範囲を広げていく可能性があるんじゃないか。そう考えると、《ブンシツ》における他者は市民だったけど、《LV並木》では、ファサードのガラスを製作する工場とか、施工者だととらえることができる。通常の設計だと図面を起こしてそれで終わりでいいんだけど、《LV並木》の場合はガラスの色と曲面形状の管理が直接建物の質に影響をおよぼすという特殊な状況だったので、質を高めるためにどういう方法があるかと考えると、製作や管理の方法までを設計の範囲として取り込んでいくことが重要だと思ったんです。ぼくがガラスの製作に直接関わるわけではないけれど、ガラスの製作や管理の方法を施工者とともに高めていくことで、ガラスをつくる工程においても我々の意図が影響しうる状況をつくる。それはメディアプラクティスの事例としてとてもわかりやすいんじゃないかなと。

春口|製作や管理の方法までが設計に含まれるような、設計の解釈や概念が広がっていく感覚は、前回の議論からも継続されていますよね。

竹内|上の世代からすると、なんでそんなところまでやるのと思われるかもしれないけど、いまは放っておくと建築家が自由にできることがどんどん狭まくなっていくように思う。そういった不自由な状況のなかで、なにか転換を起こさないといけないのかなと個人的に思っているし、それが必ずしもデメリットばかりじゃなくて、それによって新しい表現が生まれうるなと思う。その状況をたのしみながら、可能性を探っていくしかないのかなという感覚がありますね。

春口|デザインの範囲が広がった先に、施工までやっちゃいたいとかはないんですか?

竹内|ないねえ。プロフェッションの問題かな。自分がやったほうがよければそういうこともあるかもしれないけど。

春口|質の問題ってことですか?

竹内|それもそうだし、自分の関心の問題でもある。ぜんぶを自分でやってしまいたいというのは、全能的な考えをもっている建築家の思考だなと思うけど、そうした思考はいま弱まっているよね。とはいえ、自分たちのできることが減っていくだけだとおもしろくないので、いまだからこそできることってなんだろうと考える。間接的にプロの人たちと交わりながらやることは、ぜんぶ自分でやろうという感覚とはちがうかもね。

春口|自分と他者の役割が溶けて、グラデーションのようになって、建築家が気づいたら工務店になっているみたいな。

竹内|その逆に、施工の人が自分たちが設計している感覚になるとおもしろそう。ものをつくる感覚を共有していくために実践を積み重ねていく必要があって、それをメディアプラクティスと総称してもいいんじゃないかなと思います。

春口|デジタル系の領域では、建築の設計と生産が接近している状況もありますよね。建築家がデザインする範囲が広がる一方で、ユーザーがデザインするような状況も生まれつつある。それらも、メディアプラクティスとしてとらえられる可能性があるかもしれません。


トレーニングの方法論

山川|《LV並木》の場合は商業建築だから、めっちゃ写真撮られるとか、自撮りの背景になるとか、表面的なコミュニケーションしか起きてないような見られ方をされることが多いようにと思うけど、お客さんは建築のなかでいろんな経験をするし、街にあるだけでいろんな人の目にとまっている。でも、できたあともコミュニケーションが見える《ブンシツ》のような、なまなましいコミュニケーションは見えないよね。そこにはどんな手応えがあるんですか?

竹内|明らかにちがうコミュニケーションだよね。湿度やウェットさみたいなものがちがうのかな。でも、メディアプラクティスに湿度は関係ないように思う。できたあとどうなっていくかということよりも、ひとつのものができるまでの過程の問題としてどう実践を積み重ねていくか、という方法論としてメディアプラクティスを語ったほうがいいような気がするんですよ。

春口|たとえば、市民参加のプロジェクトが評価されるときに、市民が参加していることだけが評価されて、結果できたものがどうかという議論まではされなかったりしますよね。そうやってプロセスだけを偏重するのではなく、つくるものの質を高めるための方法として、メディアプラクティスをとらえたいですよね。

竹内|そうそう、メディアプラクティス自体を評価することはあまり意味がない気がするよね。実践のプロセスに良し悪しはなくて、その結果できたものがどうか、というところで、メディアプラクティスによってここまで到達できたんだ、というところに行けることがいちばんかなと思います。

板坂|実践のプロセスは、それぞれのプロジェクトに合ったトレーニングという感じで、良い悪いではないですよね。トレーニングの個性は比較できるけど、それだけで建築のすべての評価は決まらないように思う。

竹内|そう思います。あらためて振り返ると、メディアプラクティス「として」の建築って、いま考えるとむずかしいですね。メディアプラクティス自体が建築化するのではなく、あくまで方法論だと思うし。

板坂|どうやって実践するかという議論ですもんね。結びつけるとよくないかもしれないけど、作家論とかに関係があるのかな。

竹内|このタイトルを考えたのはセッションリーダーの伊藤さんなんだよね? もうちょっと突っ込んで聞いてみたいですね(笑)。


他者としての施主、建築家の演劇性

春口|山川さんは、逆につくられているもの自体がメディアとして機能するようなことを考えているようにも思います。

山川|2019年のパラレルの直後くらいから、街歩きをしながら街の読み方や見方を発見していく、フィールドワーク形式のパフォーマンス作品をやってるんだけど、パフォーマンス自体がひとつのメディアとして機能していて、街の影響で参加者の目が変わるし、自分が変わることで今度は街に影響するような実践だと思ってます。
 話は変わるけど、じつは最近、両親が住んでいる実家マンションのリノベーションの設計をやっているんだけど、すごくむずかしくて。そのマンションはすごい古いわけでもなくて、性能的に大きな問題もないから、いわゆる切実な問題はないように思えてしまうんですよ。だからいまは、パフォーマンスでやってきたことをスタディの方法として考えられないかと試行錯誤しています。コミュニケーション相手が親だから、ふつうに会話もできちゃう。だから変わったドローイングとかスタディを試してるんだけど、親も変わっていて、母親が暇つぶしとかいってAutoCADをやりはじめて、図面とか送ってくるの。自分で寸法を検討した結果、テーブルは短手1000の長手2700がいいとか送ってきて、でかくない?みたいな(笑)。

春口|でかい(笑)。

山川|あとアイランドキッチンにしたいうえに、母親が下宿時代からもっているグランドピアノもある。とにかくでかくて、部屋が狭い。なんでこれがいいとなっているのかと考えると、両親ふたりとも中学生から音楽をやっているから、でかいオブジェクトに囲まれるのに慣れているだけじゃないかって。結局は、ものすごく個別具体的な身体性に集約されるんじゃないか。建築家は施主の感覚に向き合うことになると思うんだけど、みんなそこに没入までしてるんですかね。それとも、ちょっと距離を置いてるのかな。

板坂|高山明さんの『テアトロン』(河出書房新社、2021年)の冒頭で書かれている「Jアート・コールセンター」の話をすこし思い出しました。あいちトリエンナーレ2019への抗議電話をアーティストが対応する作品についてで、コールセンターというフィクションの設定でありながら、電話で一対一で話すなかで個人と個人の信頼関係を生む状況を演出したというような話でした。この書籍では、高山さんが個々の内容に言及することはなく、その信頼関係を守る態度をとっています。

山川|クライアントと建築家の話とも取れるし、個別の事情との向き合いかたと発信の関係のヒントのような気もするね。建築家はよく形式を取り出して一般化しようとするけど、一般化しないまま個別のことにふれずにおける考え方のような。

板坂|一般化しないことには、相手へのリスペクトがあったりするんですよね。尊敬しているからこそ、一般化すると落ちてしまうことが気になってしまう。私は両親の住宅である《半麦ハット》の設計のとき、ふつうに家族として話すときと、設計者として意図を伝えるとき、それぞれで役を変えるというか、憑依するような感覚でした。

山川|その切り替えにメディアが機能することもありそう。

板坂|話し方みたいなことだったりしますね。家族としての会話では関西弁が出やすい、みたいな。自分が何役にでもなれるのが、建築家のおもしろいところだと思ってます。どんなことにもリアリティをもって取り組める。

山川|建築家自体がなにかのメディアっぽいときもあるよね。素材の代弁をしたり、ここには柱がないといけないんです、みたいな。

板坂|竹内さんのメディアプラクティスの定義で、直接は関われないけど誰かを介して関わると言っていたときに、この憑依するような感覚を思い出したんです。操るわけではないけど、一緒になるというか。

竹内|実践としてやりとりを重ねる相手に対して、一方的に自分を与えるのではなくて、お互いが歩み寄るような、同じ感覚をもつことが重要なように思う。

板坂|自分のなかに他者を、他者のなかに自分を、みたいな感じですかね。

山川|その交換がむずかしいんだろうね。こっちが相手を慮ることはできても、相手にこっちのことを想像してもらうことがむずかしそう。

板坂|陸さんの参加者が街の見方を得るようなパフォーマンスは、その交換になっているような気がします。交換がむずかしいのは、相手の側からの検証の方法がないからなんですかね。


仮設性とアーカイヴ性を同時に考える

竹内|ずっと制作論のような方向で話をしていたけど、つくることと認識することの両方が循環することが、メディアプラクティスのおもしろいところかもしれないね。そういえば2019年のセッションでもそんな議論をしてた。

板坂|その実践として、《半麦ハット》ができたあとに『半麦ハットから』(盆地Edition、2020年)という本をつくってみました。建築のつくりかたにメディアプラクティスを入れるというより、建築がどんなメディアプラクティスを生むかという感じ。

春口|板坂さん自身は本をつくって考えが変わったこととかありますか?

板坂|改めて、なんのために作品を発表するんだろう、という気持ちが出てきました。自分を表現するためにものを発表するのか、だれかを刺激するためなのか、だれかのものの見方を変えるためなのか、とか。私は、やっぱり私を含む誰かの次をつくるためのきっかけにしたいと思っています。

桂川|建築的な成果ってどうしても断片的ですよね。展覧会の会場構成をデザインする機会が増えたんですが、展示の空間もひとつの断片でしかなくて、それが最適解ではない場合もある。断片的だからこそ、完成した空間であること以上に、時間を共有することのほうが重要のように思うんです。陸さんのパフォーマンスも、フィールドワーク自体がものの見方を共有する場所づくりになっているように思って、それも時間を共有するという意味で近いですよね。

板坂|私が会場構成をやったときは、学芸員の方に模型とかで展示の構成を話しながら、いままでその人たちが何年も使ってきた施設を、今回の会場構成ではこう見立てることができる、というような話をしました。それはフィールドワークに近かったように思う。そのノウハウが、次の展示や企画のきっかけになったりするといいなと。

竹内|すごいメディアプラクティス的だよね。板坂さん自身は未来の展示には関与できないけれど、学芸員の人たちとの実践を重ねて、彼ら自身がなにかを得て、次の展示に活かされることで、間接的に未来の展示にタッチできているともとらえられる。会場構成というテンポラリーな状態にはもちろん終わりがあるんだけど、それをひとつの契機として、もうすこし持続可能なものになっていく可能性が十分あるなって思う。

板坂|建築家に会場構成を頼むことの意味がそこにあるように思うんですよね。ハリボテの場所をつくるのではないおもしろさがあるはず。

山川|時間の長さが建築的思考の大事な要素だよね。プロセスの話にしても、時間をかけて建物に触れられることが重要なんだと思う。パフォーマンスをやっているからそう思うのかもしれないけど。

春口|そういう建築家の能力って、仮設性とアーカイヴ性を同時に考えるようなことなんじゃないかと思うんですよね。ものができても終わりにしないとか、フィールドワークを通して設計するとか、施工の方法にアプローチするとか、建築が竣工してから本をつくるとか、そうした動き自体がデザインの対象になっていて、その動きの1断面を仮設的に取り出してみたり、未来に託してアーカイヴしたりする。その全体への実践をメディアプラクティスであると呼べるんじゃないかと。

板坂|一般的に考えても、建築ができるまでのタイムラインは存在するけれど、それをどう意識的にやるかどうかということですよね。その意識がないと、だれでもやってることになってしまう。

山川|2年経って、いろんな経験が増えてるからか、みんなメディアプラクティスと各自の実践が分け難くなってますね。

春口|建築家の身に迫った課題として実践されている感じがしました。今日のお話から再度メディアプラクティスの定義を試みるとすれば、「個別具体と一般化」あるいは「仮設性とアーカイヴ性」、これらを同時に考える枠組みとしてメディアプラクティスがあって、それぞれの両端を行き来する運動としてみなさんの実践をとらえられるような気がしました。ひきつづき議論をつづけていきましょう!

(収録:2021年9月16日)

 

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