セッション28 – 「メディアプラクティス」としての建築は可能か? –

2019 ローカリティ地域資源歴史認識空間性

 

 

建築を設計することは、学びとともにある。場所の歴史を知り、町を歩いて風景を感じ、さまざまな人々の言葉に耳を傾け、考える。その学びは設計と深く結びついており、リサーチとデザインという言葉で分けられない連続的/双方向的な営みである。そこで、さまざまな媒介(リサーチのアウトプット、ワークショップ、模型、図面、BIMなど)を通して行われる創造的なコミュニケーションの総体を「メディア・プラクティス」として位置づけてみる。基本計画→基本設計→実施設計といった、徐々に具体性を高めていく通常の「カタ」では取りこぼされてきた可能性を考え、曖昧で偶然な物事と向き合えるような、新しい「カタ」を構想したい。

セッションリーダー:伊藤孝仁|tomito architecture 共同主宰
登壇者:中村健太郎|NPO法人モクチン企画/なかむらけんたろう事務所、板坂留五|建築家、竹内吉彦|青木淳建築計画事務所、吉村 梓|オンデザインパートナーズ、桂川 大|名古屋工業大学大学院博士後期課程、石飛 亮|ノウサクジュンペイアーキテクツ、太田孝一郎|東京理科大学理工学研究科建築学専攻、山川 陸|東京藝術大学美術学部教育研究助手、樋口 永|株式会社遠藤克彦建築研究所、春口滉平|山をおりる、京都工芸繊維大学 KYOTO Design Lab

※セッション28では、参加者でもある春口滉平(山をおりる)さんと桂川大(alt_design studio)さんよりご提案いただき、寄稿の枠を超えて座談会が開催され、その内容も別途公開されました。


 

【応答文1】
「メディアプラクティス」とはなにか?
(春口滉平)

まずは、セッション28「「メディアプラクティス」としての建築は可能か?」の経緯を振り返ってみたい(あくまでぼくの視点からだが)。

2019年3月、日本建築学会のウェブマガジン『建築討論』に、プログラマー・建築理論家の中村健太郎氏が『コミュニティ・アーカイブをつくろう!:せんだいメディアテーク「3がつ11にちをわすれないためにセンター」奮闘記』(佐藤知久+甲斐賢治+北野央、晶文社、2018年)の書評「歴史をつくる、道具を配る」を寄稿した。せんだいメディアテークを拠点とする「3がつ11にちをわすれないためにセンター(以下わすれン!)」の活動の報告書であり、中村氏が「今日の「記録に関わる諸制度(memory institutions)」を問い直す理論書としても書かれている」と評する本書、および「わすれン!」の活動を理解するためには、本書で語られる「メディア実践」の視座が求められるのだと、中村氏は紹介している。

この書評を読んだぼくは、この「メディア実践」的試みがすでに建築や都市の文脈でもおこなわれているのではないかと思い、当時所属していた京都工芸繊維大学 KYOTO Design Labが主催の展覧会のギャラリートークとして、その後セッション28のセッションリーダーとなる伊藤孝仁氏を擁するtomito architecture(当時)と中村氏をゲストに招き「ノーテーションの射程」を企画した*1。このトークのなかで、中村氏から「メディア実践」のよりアカデミックな呼称として、かねてから水越伸らが研究を進めていた「メディア・プラクティス」が紹介された*2。このトークが2019年4月。

*1 トークの様子はこちらから
*2 中黒(・)の有無に大きな意味はないと思われるが(おそらく伊藤氏がセッションの企画時に便宜上削除した)、水越らのメディア論として紹介する場合は正式な表記として「メディア・プラクティス」を用いる

そしてこのトークで思考を深めた伊藤氏がセッションリーダーとなり、パラレル・セッションズ2019にてセッション28「「メディアプラクティス」としての建築は可能か?」がおこなわれた。2019年10月である。

当時、ぼくはこのスピーディな展開を、一瞬盛り上がっては消費されてしまうようなものにはしたくないと強く願っていた。そもそも水越らの研究成果をまとめた書籍『メディア・プラクティス──媒体を創って世界を変える』(水越伸・吉見俊哉編、せりか書房)は2003年発行であり、「わすれン!」の活動も2011年以降現在にいたるまで継続していて、多くの蓄積がある。さらに遡れば、60年代以降の設計プロセス研究の蓄積からも、多くの示唆が得られるはずだ。もちろん、こうした実践にはテクノロジーの進化が大きく影響しているので、これからさらに研究・実践が進められる領域であるはずだから、本気で心配していたわけではないのだが、より長く、継続的に議論すべき対象なのだと思っていたのだろう。

経緯のつづきを話せば、セッション終了後も参加者らは継続して連絡を取りあい、意見交換をつづけているのだから、ぼくの心配は杞憂だった。コロナ禍となっても、オンラインでの飲み会や、音声のみのストリーミング配信付きの建築見学会などがつづけられている。

ぼくは、このメディアプラクティスを介したコミュニティを、一種の開かれた運動体だと思っている。かつて歴史を更新してきたさまざまな建築運動と肩を並べるような。だから、参加者のみんなと「メディアプラクティス宣言」のようなものを準備したい。そのために、まずはぼくらのなかでメディアプラクティスを定義しておきたいのだが、これがむずかしい。

2019年のセッション当時も、明確な定義はできないでいた。他方で、そもそも実践をつづけることでしか理解できない領域であるという認識は、参加者のなかで共通のものだったように思う。だからこそ、今回のパラレル・セッションズ2021の話をいただいたとき、セッションから2年を経たいま、参加者らがどのような実践をつづけてきたのかを共有し、批評しあうことが重要なのだと思い、無理をいって参加者らとの座談会の模様を特別コンテンツとして掲載させていただくことになった。おそらく、全33セッション中、最長の文字数となっていると思われるが、ぜひ最後までお読みいただき、ぼくらの運動に参加してもらいたい。

さて、大仰なタイトルを掲げておきながら、中身についてまったく語らないテキストとなってしまった。最後にすこしだけ、メディアプラクティスの概要についてまとめておきたい。特別コンテンツである座談会の補助線にもなるはずだ。
先述した水越らの『メディア・プラクティス』では、次のような定義がされている。

メディア・プラクティスには二つの意味がある。一つは、グローバル情報化のもとで精緻に体系化され、管理され、巧妙に環境化したメディア状況を積極的に編みなおす、デザインするという志向性を持った「プラグマ」のことである。[……]もう一つは、メディア論的実践、あるいはメディア実践研究とでも呼ぶべき、新たな知の展開を企図した意味合いである。理論と実践、歴史と現在を連結させ、それらの共犯関係を自覚したメディア論のあり方として、メディア・プラクティスは構想可能なのではないだろうか。(水越伸・吉見俊哉編『メディア・プラクティス』カバー掲載の解説文より)

セッション当日では、この定義を共有していない。いま読んでも、メディア論におけるこの定義をそのまま建築での実践に置き換えることはむずかしく思える。ただ、「理論と実践、歴史と現在を連結させ、それらの共犯関係を自覚したメディア論」であるという部分は、ぼくらの議論のなかでも意識されていたように思う。

ぼくらは当初、メディアプラクティスとは「これまでの建築設計プロセスでは取りこぼしてしまっていたものごとにアプローチするためのメディアを介した実践」であるという、なんとなくの共通認識をもっていた。理論と実践、リサーチとデザインが、不断なものとして連続してとらえられていた。

セッションでは参加者らの実践が紹介され、それらを総合すると、建築におけるメディアプラクティスとは「他者性を含んだ状態で設計すること」なのではないかと、暫定的な定義がなされた。この定義をさらに広げて理解すると、次のようなことになる。「メディアプラクティスとは、ある実践において、他者と自己を行き来するための方法論である」*3。

*3 参加者の実践の紹介など、当日の議論の様子はこちらから

ここまでが、2019年当時のぼくたちのメディアプラクティスの理解だ。それから2年、コロナ禍を経て、メディアプラクティスの理解は変わるのか、変わらないのか。無責任かもしれないが、ぼくにはまだわからない。唯一わかっていることがあるとすれば、ぼくらは実践をつづけ、それらを相互に批評しつづけることでしか、「メディアプラクティスとはなにか?」という問いには答えられないということだろう。

春口滉平
編集者。エディトリアル・コレクティヴ「山をおりる」メンバー。建築、都市、デザインを中心に、企画、執筆、リサーチなど編集を軸にした活動を脱領域的に展開している。


 

【応答文2】
迂回しながら、なわを張り、歩み寄る
(桂川大)

本テキストは、セッションの総体を俯瞰した当事者であり観察者の目線で書き起こしたものです。セッションを終えてから、完成した作品の相互批評やzoom飲み会議、座談会を経て、回答に近づいてきました。セッションメンバーへの投げかけを含め、言語化しています。

01.「メディアプラクティス」の正体
ここでメディアプラクティスを解(ほど)いていく補助線として以下のキーセンテンスを掲げます。

設計ではない、制作的な空間へ(=迂回する)
決定権を握らない、不連続な複合体へ(=なわを張る)
完結しない、他者への介入(=歩み寄る)

事前参加者の一人である竹内吉彦さんより座談会で提示された

「メディアプラクティスとは、自己が直接関与しえないある目標に対して、その目標に直接関与しうる他者との間で実践を重ねることで、間接的に作用を促す方法」

という明快な定義に対し、さらにこれらの補助線から眺めてみたいと思います。

02.迂回する
まず、制作という捉えどころのない奇妙な概念*1としたのは、メディアプラクティスに対しても同じような印象を当時持っていたからです。同類の解題例を引けば、吉阪隆正氏は「生活」という概念について、以下のような図とともに、位相を持った生活の圏域の広がりや横断をわかりやすく示しています*2。

この図で示すところは、食堂や寝室ではない移動や生産、創造など日常にある生活空間の再構成を論じています。これは、単に生活を取り囲むための住居が目的となるのではなく「未目的」な場として生活する空間が成立する可能性を持っているのではないか、と捉えられます。

設計から制作への転換も、一旦つくるという未目的で余剰ある空間に引き戻すことにあります。例えば、開放された「技術の民主化」*3もその一端と言えるのではないでしょうか。開放され、余剰ある制作的な状況(空間)を「迂回」と名付けてみます。

*1 上妻は「書くこと、描くこと、狩ること」(=制作)を経由して落ちていく自他の空間を制作的空間と定義している。(上妻世海『制作へ』pp30-32)
*2 吉阪隆正集 第1巻 『住居の発見』pp155-160
*3 10+1 特集  建築の漸進的展開『アーバニズム、建築、デジタルデザインの実践とグラデュアリズム』(https://www.10plus1.jp/monthly/2020/01/issue-01.php

03.なわを張る
参加者の山川さんが座談会中、WSを例に、制作(ここでは絵を描くこと)においてバラバラな他者の身体と「時間」を共有する演出の重要性について話していましたが、相手の身体の手振り、身振りを体験しながら解(ほど)いていく、相手の身体が自然と制作に入ってくる無防備な関係を結ぶメディウムを「なわ」と名付けてみます。

これは線を引く強い行為ではなく、伊藤さんの「新聞づくり*4」のように余剰のあるなわを張る行為に近い意味合いを持っているように思います。それは決定権を握らない、バラバラな他者との制作的空間(=不連続な複合体)へ繋がる*5のではないでしょうか。

*4 セッションリーダーへのインタビュー記事より
*5 論考『不連続な複合体 ーレトロタイプへの指向』より引用(https://note.com/daywa17/n/na9e53f9082b6

04.歩み寄る
セッションで議論された、「自己(A)に完結しない、他者(B)に対して様々なメディウム(M)を通して、制作する」状況では、板坂さんが言う、ある人格に「憑依」する演劇的な要素についての言及*6が象徴するように、社会や都市、特定の他者へ介入し歩み寄る演出の舞台をつくることは、セッションメンバーに共通するプラクティスだったように思います。

*6 セッションメンバーでの座談会に詳しい。

05.  プラクティスは可能か:会場を構成する
セッションを終えた後に展覧会をつくる、会場を構成するPJに関わることが増えたことも以上の3つの前提を導くきっかけとなりました。それは展覧会という形式自体が、「鑑賞の経験によって他者に新たな認識を生む表現媒体」であることに起因しています。ただ、この鑑賞する形式はある仮設的な一つの状況(一度きりの経験)です。その前後にある表現を繋ぎ止める”時間”を軸とした、創造が先行しないアーカイブ的な制作プロセスこそが作品の指向を広げているのではないか、と考えています。今後、会場を構成することを通して、よりこの指向を深められたらと思います。

06. メディアプラクティスへの衝動
ここまで、なぜ僕たちは「迂回しながら、なわを張り、歩み寄る」のか、について部分から考察してきました。(一言でまとめれば)それは特に、介入され得る未目的な「仮設性」に時間や観察、記録を内包した「アーカイブ」が相互に作用する制作的空間ではないでしょうか。議論されたメディアプラクティスへの「衝動」は、現在の制作的空間がどのような新方向へ進んでいるのか、指し示しています。今回のセッションは、制作の方法、指向として問題意識を共有し得る、現在的な学びがありました。ぜひ、引き続き議論したいですね。

07.あとがきにかえて
2019年10月19日17時、その日は静岡県で竣工した403architectsの作品の内覧会へお邪魔した後、重要な役割を担って東京の上野にある宿へ前入りしていました。

当時、あいちトリエンナーレ2019(以降あいトリ2019)の大学連携プログラム「夏アカ」*7にチューターとして参画しており、辻琢磨さん、服部浩之さん、山城大督さんを含めた講師の皆さんと学生の間を取り持つメディウムのような役割を担っていました。そのプログラムに真剣に向き合い制作した参加者と「表現」についての議論をするためでした。ご存知の通り、あいトリ2019の内外ではこれまでにない「表現」の議論や実践が繰り広げられていて、関係者ミーティングや作家らによる反抗、右翼による抗議デモなどを目撃し、「表現」について考えなければいけない状況にいました。今回のテーマである、「メディアプラクティス」には、その「表現」に通ずる展開があり、参加することを後押ししたように思います。また当時、自身の「現在のプロジェクト」として「an alternative archive」*8を掲げました。それは、あいトリでの「表現」からの地続きな興味である制作プロセスへの指向があったのです。

最後に、このセッションを経て、「メディアプラクティス宣言」なんてことをしてしまおう、と共同編集者の春口くんと冗談のようで本気のような話しています。この現在的な学びの機会をくださった、辻さんや川藤さん、セッションリーダーの伊藤さんをはじめ委員のみなさま、セッションメンバーのみなさまに改めて感謝申し上げます。

*7 あいちトリエンナーレ芸術大学連携プロジェクト『U27プロフェッショナル育成プログラム 夏のアカデミー2019「2052年宇宙の旅」』(https://aichitriennale.jp/ala/project/2019/p-004072.html) 
*8 http://bunka.aij.or.jp/para-projections/4405/


桂川大
1990年岐阜県生まれ、名古屋工業大学大学院博士前期課程を修了後、一級建築士事務所Eurekaに勤務。現在、名古屋工業大学大学院博士後期課程に在籍。alt_design studioを主宰。

 

 

2021年度PPA特別コンテンツ03【座談会】メディアプラクティスをめぐる相互批評

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