Session23 -都市の余白をランドスケープとして扱う方法とは?-

2018 地域資源景観更新環境

日時:2018/10/21 15:00~18:00
会場:建築会館ホール
テーマ: 都市の余白をランドスケープとして扱う方法とは?
登壇者:大野暁彦(株式会社SfG landscape architects/名古屋市立大学)、鈴木克哉(szki arvhitects ㈱一級建築士事務所)、堀裕貴(関西大学大学院 住環境デザイン研究室)、黒澤健一(kurosawa kawara-ten)、屋台学会、吉永規夫(Office for Environment Architecture)、佐藤直樹(株式会社 如是アトリエ IIA atelier )


 

【応答文1】
「余白」からの脱却プロセス・スケープ
(大野暁彦)

このセッションに与えられた「余白」と「ランドスケープ」ことばは実に難解であり、多様な解釈が可能である。2018年のセッションでは、それぞれ持ち寄ったプロジェクトをベースに「余白」について議論し、キーワードをだしながら、その活用の「方法」を議論した。

その中では「余白」として、空き家、ビルの屋上といった「未利用空間」、公園などの「計画的な空地」、郊外や地方といった「土地利用的空白」などがあがっていた。これらだけでも、スケールも違えば何に対しての「余白」であるかも異なる。それだけにどう扱うべきかについて共通の考え方を示すのは難しい。しかし、いずれの場合であっても、「余白」に対して扱おうとするならば、ポジティブに扱おうがネガティブに扱おうが、まずは「余白」を認識することが重要であろう。

先にあげた3つの論点のうち、「計画的な空地」はここ最近話題が尽きない。これまであまりうまく使われてこなかったパーク(公民問わず)や広場、道路なども、パークPFIやタクティカルアーバニズムの動きなどを受け、新たな活用が生まれている。さまざまなプロジェクトで、敷地目一杯に建築物を建てるのではなく、「公園のような」「余白」があえて設けられている。こうした「余白」まちの中であるからこそ、さまざまなアクティビティが発生していると考えられる。仕掛ければそれに呼応してまちがどんどん活気づいている事例がいくつもみられるようになった。都市における「余白」の意義の大きさに改めて気付かされる。これらの事例はいずれも多くの人がいる都市のパブリック(またはコモン)な空間にある「余白」であるからこそ「ランドスケープ(風景)」になりえている。

一方の空き家などにみられる人の不在に伴う「余白」はやや深刻である。このセッションに与えられた2つ目の難解ワードである「ランドスケープとして」とあるが、ここでは仮に「ランドスケープ」を風景と置き換えて考えてみると、人のいない空き家では、風景をみる主体がいないのだから成立しえない。人がその空き家に介在するためのさまざまな手立てやデザインの可能性はあっても、もとより人がいなかったところに人が関わりを創出することはとてもエネルギーがいることである。私も岐阜にあるもともと空き家であった父の育った家と東京との二拠点居住をしているが、移動は常に伴う上、メンテナンスをする場所が単純に2倍以上になっておりそれなりに負担ではある。新型コロナウィルス感染症蔓延により遠隔地であっても移動せずとも仕事ができるようになってきたことは、その負担を軽減するものであり、以前よりは空き家のような未利用の「余白」を使いこなせる可能性が見出せてきた。しかしそれも人口減少のスピードに対して、二拠点居住や公共利用など未利用の「余白」に対する需要が追いつけるのかは甚だ疑問である。

むしろこうした非計画的に発生しうる「余白」をいかに「計画的」に手放していけるかということをしっかり議論しなければならないと考える。「余白」とはまずは認識することであるが、「余白」であることを認識できる空間的領域にも限界がある。「余白」という以上、何か主題があり、一般的にはそのまわりが「余白」になりうる。絵画でいえば何も描かれていない領域のことになろうかと思うが、額縁という決められた枠の中での話だ。当然その枠より外は「余白」とすら言わない。空間であっても、ある主対象に対してそのまわりが「余白」と考えられるが、額縁のように主対象と余白を包括する大きな枠組みが存在するのではないかと思う。それは「ランドスケープ」を風景と捉えるならば、主体である人が認識している空間の範囲が額縁にあたるのではないかと思う。人の活動領域が狭まれば、徐々に「余白」の領域すらも狭まる可能性があり、当初は「余白」であった空間も潜在化して意識されなくなるだろう。それを現実で考えれば、自然の流れの中へ置き去りにするようなことなのではないかと思う。それはさまざまな問題を片付けずに、放置し後世に負の遺産を残しかねない。2011年以降何度か福島浜通りを訪れることがあったがまさにそのようなことを思ってしまった。誰もこないところに山積みにされていく放射性廃棄物の山をみてただただ唖然としてしまった。あの光景を知らない人にとっては「余白」にもなり得ないだけに、重大な問題を無意識の彼方においやっているように見えた。

このような問題を解決する方策をあるのだろうか。答えはいろいろ考えうるだろうが、30年かけて整備をしているフレッシュキルズパークなどの事例を考えれば長期にわたってのプロセスをデザインし、そこに僅かながらでも人が介在し風景化することでつないでいくことが大事なのではと考える。つまり、「余白」からの脱却プロセスをデザインすることで「ランドスケープ」になりえるのではないだろうかと考える。


放置されセイタカアワダチソウが繁茂する楢葉町(2013年秋)
この風景(ランドスケープ)は「余白」なのだろうか?そしてどうすべきなのだろうか

大野暁彦 
1984年生まれ 千葉大学大学院園芸学研究科博士後期課程修了(博士(農学)) 名古屋市立大学大学院芸術工学研究科准教授 エスエフジー・ランドスケープアーキテクツ代表取締役 武蔵野美術大学、中央大学、名城大学、愛知工業大学で非常勤講師 各務原市景観アドバイザー 登録ランドスケープアーキテクト


 

【応答文1】
都市の余白についてと手法試論としてのランドスケープ2021「都市の生贄としての風景」
(佐藤直樹)

都市の余白を構成要素(エレメント)として設計領域に扱うことができるならば、都市建造物の内外環境をスキャンする事と同時に、歴史の文脈を読み込み、この時代に召喚可能な空間を築造する事がランド(場所)スケープ(身代わり)という言葉の意味を持ち得るのではないかと考える。

都市は人間の営み機能用途の集積であり、生活基盤(プログラム)であるとすると、余白とは使用もされ得ない空間なのであろうか。日常生活をおくるうえで都市を構成する主軸に扱われないであろうこの空間に眼差しを向ける事が使用者(プレイヤー)としての都市生活者、現代人の表現や、居住生活のパフォーマンスとつながるのではないかと思考する。

ある特定多数の情報(ヒトモノカネコト)を局所的なエリアにおいて扱い、イベント(企画)を起こす事は、日常可能な生活のプログラムである。この様なゲームは、空間を問わず情報の海の中で完結し、身体で知覚する領域の拡張を都市空間内で泳ぐ情報とするならば、私と都市のコミュニケーションを介する風景は、両者の眼差しが環境を纏った時に立ち現れ建築計画のコンセプトを想起する場所(敷地)となると考える。[1]

行為や思考のフィードバックは、活動サイクルを円滑に回す為の機関であるが、計略、政策、制度に対する更新は遅い。先に投げるという意味において、ゲリラ的な試行を都市のミクロな視点に置いて行う活動を表現の社会性という(枠組み)フレイムで捉えるとして、この様な行為を都市空間と戯れる能動的な表現者と見ると、システムの枠組みから離脱し、創意工夫の象が浮かび上がる。[2]

この様な状態を寛容な態度で支えるのも都市の性格によるとするならば、その場所で(都市の余白)行われる行為そのものは、その場所に立つ人が築く眼差しのスケールが最も簡約に行えるアプローチではないかと射を構える。 [3]

心理のモジュール、眼差しのスケール、というキーワードを設計手法として「都市の生贄としての風景」Landscape as a sacrifice of the cityと記す。余白とはどんなエレメントか?現代の余白の構成要素が「未確の存在」であるとすると、個人が知覚する領域を心理や眼差しといったセンサーを介した先のフィルター(個性)までを含む環境を扱う手立てとするならば、都市の余白の風景を記象する事は可能であると考える。[4]

都市の余白に風景を見いだすことは、生活者個人の情緒や、微細な環境運動を認知し働きかける行為としての建築である。都市環境に飼い慣らされること、環境の変化にアンテナを張り、都市のテロメア(RNA)としての機能を持つのではなく、余白の意味が時代性をおびることに眼差しのスケールをおき、その場所に心理のモジュールを生活者が手に入れることで、その場所とコミュニケーションを築くのである。都市はこの2つの関係をスケープゴートし消費のサイクルを回すのである。[5]

 [1]conversion事例(red plum culture & creative park)
   https://www.archdaily.com/967099/red-plum-culture-and-creative-park-aaarchitects-plus-iia-atelier?ad_source=search&ad_medium=search_result_all
 [2]遊園地都市の進化  
   http://clt981295.bmeurl.co/9DA342F
 [3]排除アートと科防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン 
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/23127  
 [4]建築の新しい自立性に向けて 
https://www.10plus1.jp/monthly/2015/07/issue-04.php
 [5]drawing 無意識の川   

 

佐藤直樹
2010年東海大学情報デザイン工学部建築デザイン学科卒
2011年株式会社栄港建設
2014年株式会社如是アトリエ設立

 

 

 

 

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