トウキョウ建築まち歩き──丸の内から旧江戸城、九段まで

トウキョウ建築まち歩き[丸の内から旧江戸城、九段まで]は、東京駅丸の内口側の行幸通りをスタート。
東京駅丸の内駅舎周辺を概観した後、大手門から皇居東御苑に入り、旧江戸城本丸を巡ります。
平川門から出て、北の丸公園、清水門から九段下、九段坂を上って、靖国神社の遊就館前がゴールです。

江戸から東京に至る歴史がぎっしりつまった行程の見どころ、Map等は追って掲載します。







トウキョウ建築まち歩き──麻布・飯倉

登って下って麻布・飯倉

トウキョウ建築まち歩き[麻布・飯倉]は、有栖川宮記念公園の広尾口からスタート。
麻布台地の外周部と谷筋を巡り、低地の麻布十番を回遊。
飯倉台地の南側の低地、狸穴から急坂を登り飯倉台地へ。台地東端の東京タワーの先の芝公園がゴールです。

◆縄文の風景|5,500年前
 中沢新一の著書『アースダイバー』(2005年、増補改訂2019年、講談社)には、Tokyo Earth Diving Mapと題したちょっとシュールで魅力的な図が収録されている。画面の右が濃厚な青紫色、そこから左側のベージュの部分に、曲がりくねり枝分かれしたいくつもの“触手”が奥深くのびている。凡例では、ベージュの部分は武蔵野段丘の東端部の「洪積台地」、青紫色の部分が「沖積低地」とある。青紫色が東京湾に及んでいて、海面の上昇(海進)があった縄文時代の海と陸に見える(図は人の暮らしがその境界に集中したことを示したもので、遺跡や墳墓、神社がプロットされている)。沖積低地のすべてが海だったとは考えにくいが、洪積台地の谷がより深く、土砂の堆積よりも海進が早かったとすれば、かなりのところまで海は来ていただろう。麻布台地と青山台地の間の谷の最奥部、青山霊園の西側にも貝塚があることがその証拠である。東京湾に面した標高20mの東京タワーが建つ台地の東端からは、増上寺の前あたりに寄せ来る波が見えていたはずだ。縄文の風景。


◆パティオ十番|70年前
 仙台坂上の交差点から北へ。緩やかに右に湾曲する一本松坂、大黒坂を下っていくと、正面にケヤキの高木が茂る広場が見えてくる。パティオ十番だ。ヨーロッパの旧市街にある広場にも似た、日本の都市ではあまりお目にかかれない空間である。ケヤキの木陰で憩う人びとにはどうでもいいことだが、道路に島状に設けられたこの広場は法律上は「道路」。公園ではない。この“道路”はまた、商店街組合の管理でさまざまな催し物にも利用され、賑わいを生んでいる。
 麻布十番商店街は空襲で大きな被害を受け、戦後いち早く区画整理事業が施行されて、そのなかでパティオ十番は生まれた(昭和27/1952年に完成したときは、ただ広いだけの簡易舗装だったが)。現在のかたちに整備されたのは昭和61(1986)年のこと。パティオ十番の先の道路は、緩やかに左に湾曲して東側の幹線道路(放射一号線)へ向かう。これも計画されたものだ。通常なら大黒坂がそのまま真っ直ぐに抜けるかたちだろうが、この計画によってここにしかない都市空間が生まれている。都市計画家、石川栄耀の思想。


◆江戸切絵図と陸軍参謀本部地図|171年前・138年前
 切絵図とは、大型の地図の大絵図に対して地域別に分割した小型の地図のこと。江戸時代の後期に大量に流布した。その代表が嘉永(1848–54)から安政(1854–60)にかけて刊行された尾張屋清七(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286665)と近江屋吾平(近吾堂)(https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/)によるふたつの切絵図である。近江屋の方がより詳細だが、現在、切絵図としてよく目にするのは多色刷りの尾張屋の方だ。尾張屋板にはいくつか工夫がある。川、道路、神社仏閣、町家、空き地や畑が色分けされ、武家屋敷は家紋がある上屋敷、■が中屋敷、●が下屋敷と分類されている。文字の頭の方向が表門の位置である。
 ちなみに、散歩の達人、永井荷風はこの切絵図を片手に散歩に出かけていた(永井荷風『日和下駄』1915年、籾山書店、1999年、講談社文芸文庫)。荷風は麻布区市兵衛町1丁目(現在の六本木1丁目、泉ガーデンの東側)に、大正9(1920)年、ペンキ塗りの自邸を新築し、「偏奇館」と名付けた。昭和20(1945)年の東京大空襲によって焼失するまでの25年間居住した。
 もうひとつの地図は、明治9–17(1876–84)年につくられた陸軍参謀本部による5千分1東京図測量原図(国土地理院蔵)。色彩豊かな地形図で美術的価値も高い。これは(一財)日本地図センターによるスマホアプリ「東京時層地図」で閲覧できる。同じくスマホアプリの「大江戸今昔めぐり」では切絵図と今の地図を行き来できる。現代のまち歩きは、スマホを片手に出かけることになるようだ。
 切絵図の「●南部美濃守」とある旧盛岡藩主南部美濃守の下屋敷の一部が現在の有栖川宮記念公園である。この地は明治29(1896)年に有栖川宮の御用地に、大正2(1913)年に高松宮御用地となり、昭和9(1934)年に公園として整備された。有栖川宮御用地となった当時、有栖川宮邸は麹町(当初は霞ヶ関一丁目)に建設されており、御用地には宮邸は建てられていない。

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トウキョウ建築まち歩き──上野・谷中

上野の杜と谷中周遊

 今回歩く上野の杜(上野恩賜公園)とその北側の上野桜木、谷中は、北側から伸びる上野台地(武蔵野台地の一部)の南端部にあたります。西側は不忍池を挟んで東大キャンパスが広がる本郷台地の高台、東側は下谷の低地が広がります。

◆江戸の風景
 上野の杜の風景には、時代の痕跡を残す多くの建物がありますが、中でも創建年が明確な最古のものが「清水観音堂」(寛永寺清水観音堂、1631/寛永8年)です。
広重の浮世絵「名所江戸百景」の中の「上野清水堂不忍ノ池」(1856/安政3年刊行)には、満開の桜に囲まれた清水観音堂の舞台から、不忍池を眺める人びとと、枝が円を描く「月の松」が描かれています。以前は生い茂った樹木で見えなかったのですが、現在は既存植生に戻す形で樹木が整理され、清水観音堂から不忍池に浮かぶ辯天堂へのビスタが確保されました。そして明治初期の台風により失われていた「月の松」も復元(2012/平成24年)されています。
 清水観音堂は、かつて上野の杜に巨大な伽藍を構えていた寛永寺の建物のひとつです。寛永寺は山号を東叡山と号し、江戸城の鬼門(北東)を守るものとして、天台宗の僧、天海(慈眼大師)により江戸初期(1625/寛永2年)に開創されました。東叡山という山号は、京都を守護する比叡山延暦寺に対して東の比叡山を意味します。寛永寺の常行堂、法華堂などの主要な建物は1627(寛永4)年の1年間で建設されています。そこから3年遅れて不忍池の辯天堂が、さらにその翌年に清水観音堂が建立されます。江戸を守るための寛永寺の諸堂に対して、この2堂は庶民がお参りできるお堂としてつくられたといわれています。清水観音堂の舞台は、その名の通り京都の清水寺に倣ったものであり、不忍池の辯天堂は琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺を見立てたものとのことです。
 清水観音堂は当初、現在の場所から少し北側の摺鉢山古墳に建てられていましたが、1698(元禄11)年に、寛永寺の根本中堂が現在の大噴水の辺りに建てられる際に移築されました。移築に際しては辯天堂からの軸線が意識されたのだと思われます。
 1868(明治元)年、彰義隊と官軍の上野戦争で、寛永寺の建物はそのほとんどが失われました。現在残る江戸期の建物は、清水観音堂のほか、五重塔(旧寛永寺五重塔、1639/寛永16年)と上野東照宮(東照宮社殿、1651/慶安4年)があり、いずれも江戸前期のもので重要文化財に指定されています。
 上野の杜の建物を年表にプロットしてみると、元禄から明治が始まるまでの170年間はほとんど空白です。広重の浮世絵が描かれた安政のころからも160年。この間は変わらぬ風景が保たれ、江戸のまちの人びとが訪れる名所であり続けたのだといえるでしょう。

◆明治の上野の杜
 明治以降、寛永寺の敷地の大部分は公園となり、幾度も博覧会会場に利用されたほか、文化・教育施設がつくられ、人びとが集う場所であり続けます。1877(明治10)年には、寛永寺本坊跡に建てられた煉瓦造の美術館(現存せず)を中心に第1回内国勧業博覧会を開催。1882(明治15)年には、コンドル設計の「上野博物館」(現存せず)が開館し、付属施設として動物園が開園します。この時期、不忍池畔で競馬が開催され(1885/明治18年)、夜桜見物ができる電気灯(1887/明治20年)が点されました。堀口捨己が不忍池畔にパビリオンを設計したのも、1922(大正11)年に開催された平和記念東京博覧会でした。
 現在に残る明治期の建物は、1890(明治23)年に日本初の音楽専用オーディトリアムとして建設された「旧東京音楽学校奏楽堂」(設計:山口半六・久留正道、1987/昭和62年に移築保存)、1906(明治39)年に未完のまま正面のない建築として落成した「帝国図書館」(設計:久留正道・真水英夫・岡田時太郎、2002/平成14年から国際子ども図書館)、東京国立博物館の「表慶館」(1908/明治41年、設計:片山東熊)があります。

◆昭和・平成・令和の上野の杜
 戦前戦中期の上野の杜を代表する建築は、1938(昭和13)年の「東京帝室博物館本館」(東京国立博物館本館)でしょう。関東大震災からの復興ということで復興本館と呼ばれていました。瓦葺きの屋根を載せる「帝冠様式」と否定的に捉えられているスタイルの中では最も巧みなデザインで、江戸の寛永寺以来の明確な軸線の上に、静けさと威厳をたたえています。正門を入ると正面にこの本館、左に新古典主義の「表慶館」、右に「東洋館」(1968/昭和43年、設計:谷口吉郎)と30年の時を隔てた見るべき建築に囲まれます。表慶館の奥にある法隆寺宝物館(1999/平成11年、設計:谷口吉生)も見逃せません。
 「国立西洋美術館」(1959/昭和34、設計:ル・コルビュジエ)、「東京文化会館」(1961/昭和36年、設計:前川國男)、「東京都美術館」(1975/昭和50年、設計:前川國男)ができ、さらには、「旧東京音楽学校奏楽堂」の移築(1987/昭和62年)、旧帝国図書館の「国際子ども図書館」(2002/平成14年、設計:安藤忠雄・日建設計)へのリノベーションが完了すると、上野の杜の風景の骨格はほぼ固まりました。その後もさまざまな修景が行われていますが、中でも重要なのは、最近行われたJR上野駅公園口駅舎の建て替えと駅前の再整備です。公園口前の道路を一部廃止して広場としたことで、歩行者空間が上野駅に直接接続されました。さらにその正面に駅入口が移設され、改札を出ると目の前に公園への軸線が開くようになったのです。軸線を受け止める上野動物園の表門は現在工事中です。

◆谷中
 上野の杜の北側は上野桜木、その先が谷中です。谷中は上野台地の尾根部と、現在は暗渠となっている藍染川が流れていた下町の低地からなります。上野桜木から谷中の高台は、江戸期には寛永寺の寺領が広がり、現在も寺院やその墓所が多く存在しています。谷中霊園を突っ切る桜並木は、かつては天王寺の参道で、その途中に幸田露伴(1867–1947)の小説『五重塔』(1892/明治25)のモデルとなった五重塔(1791/寛政3、1957/昭和32焼失)が建っていました。
 谷中には、東京美術学校(東京藝術大学)初代校長の岡倉天心(1863–1913)が創設した日本美術院があり、東京藝術大学で教えた平櫛田中(1872–1979)や朝倉文夫(1883–1964)がアトリエを構え、下谷に生まれた幸田露伴も『五重塔』執筆中に住んでいました。
 この地域は関東大震災や第二次世界大戦の空襲の被害も少なく、明治から昭和初期の建物やまちなみが残されています。平成になると、それをまちの資産として活用する新しいまちづくりが興ってきました。銭湯をモダンアートのギャラリーとした「スカイザバスハウス」(1993/平成5年)、閉店した喫茶店の再興「カヤバ珈琲」(2009/平成21年)、木賃アパートを文化複合施設とした「HAGISO」(2013/平成25年)、戦前の木造住宅3棟を商業コンプレックスにした「上野桜木あたり」(2015/平成27年)などがつくられ、魅力的なまちなみが生まれています。

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トウキョウ建築まち歩き──日本橋・深川・本所

まちのタカラ探し

 日本橋北詰からスタートして、江戸の下町、旧日本橋区、旧本所区、旧深川区を歩きます (ルートは6-7頁の地図をご覧ください。点線で示してあります。一部地下鉄を利用します)。
──
 この地区は、江戸の昔の度重なる大火と、関東大震災、東京大空襲の業火をくぐり抜けてきました。それゆえ目にする建物のほとんどは新しく、「下町」という言葉が想起させる伝統的なまちなみの風景は期待できません。しかし、江戸の文化が華開いたのは、江戸城の東側の低地に町人を住まわせたこの下町からであり、今なお、まちの骨格と人びとの営みの中に、四百余年のまちの歴史は息づいています。古地図や浮世絵、古写真を携えながらまちのタカラを探すことを、今回のまち歩きの楽しみとします。
 江戸の橋といえば江戸下町の象徴である日本橋(慶長8/1603年)が有名ですが、もうひとつ、江戸にとって重要な橋は「明暦の大火」(明暦3/1657年)の後に隅田川に架けられた「両国橋」(万治2/1659年 or 寛文元/1661年)でした。この橋によって下町が、隅田川を越えて本所、深川に拡張することになります。数ある江戸の大火の中でも最大の被害をもたらした「明暦の大火」からの復興は、江戸のまちを大きく変えるものでした。
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 時代は下って東京に壊滅的な被害をもたらした関東大震災(大正12/1923年9月1日)からの復興事業では、今に至る東京のまちの社会基盤として道路、公園、橋、インフラが整備されました。建築の耐震化、不燃化の取り組みが進められ、復興小公園を併設した復興小学校が建設され、復興大公園(隅田公園、浜町公園、錦糸公園)が設置されました。市中の川に架かっていた橋も大部分が甚大な損傷をうけ架け替えられました。なかでもそれぞれに独自のデザインで隅田川に架かる橋は今回の見どころのひとつです。
 かつては1975年ごろまでに完成した「カミソリ堤防」がまちと川を分断していましたが、近年では「隅田川テラス」が整備され、川と橋を眺める新しいビューポイントが生まれました。
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 リノベーションによって、町の新しいタカラを生み出す試みもあります。オフィスビルをリノベーションした隅田川を眺めるテラスのあるホテルや、1960年代のビルを改装したゲストハウスやカフェが生まれています。関東大震災後の復興として、深川の清澄に東京市や民間が建設したRC造の店舗付きの住宅は、魅力的なカフェやギャラリーとして使われています。
 町の歴史が今もなお更新されている日本橋、本所、深川の魅力を堪能してください。

●古地図のリンク
国立国会図書館デジタルコレクション
 ■新板江戸大絵図 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286180

同ページの解説より:
題簽書名。遠近道印の編により、寛文10年[1670]から同13年(延宝元年)にかけて順次、経師屋加兵衛から出版された5舗1組で江戸をカバーするいわゆる「寛文五枚図」のうち。各図とも遠近道印の肉筆花押つき。「新板江戸大絵図」(本図)と「新板江戸外絵図」4舗よりなる。木版筆彩(道、水、橋)。遠近道印は地図作者で医師でもあり、のちに富山藩に仕えた藤井半知の筆名とされる。明暦大火直後に、府内の精密な地図を必要とした幕府の命により、当時の大目付で、洋式測量にも通じていた兵学者北條安房守氏長の指揮下に行われた府内実測の成果にもとづき、板行は幕府の特別の裁許(「御訴訟を以て板行」)による。縮尺は1分5間(1間を6尺5寸とする、すなわち3250分1)。官許によること、方位、縮尺の正しさのほか、辻番所、坂、屋敷境の記号などを「本図」の凡例に示す。方位、縮尺の正しい「分間図」として後続の江戸図の典拠となった。大型図5枚の日用上の不便を考慮して、道印自身が1枚に縮図した絵図も刊行されるが、他の版元も相次いで本図に基づく同様の縮図を作製する。

 ■江戸名所図会 7巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2608887?tocOpened=1
 タイトル:江戸名所図会 7巻 著者:松濤軒斎藤長秋ほか、出版者:須原屋茂兵衛ほか、出版年:天保5/1834年 - 7/1836年

 ■分間懐宝御江戸絵図 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543061
 タイトル:分間懐宝御江戸絵図 出版者:須原屋茂兵衛 出版年月日:安政4/1857年

東京都立図書館

江戸の町づくり──江戸から大江戸へ 転載によって広がっていった江戸のまち https://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/edo/tokyo_library/machi/index.html

城下町・江戸のはじまり https://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/edo/tokyo_library/machi/page1-1.html
→慶長江戸図(通称「別本慶長江戸図」) 弘化2年(1845)、神田上水之元絵図
「明暦の大火」からの復興 https://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/edo/tokyo_library/machi/page2-1.html
→新添江戸之図 明暦3年(1657)、新板江戸大絵図 麹町、日本橋、京橋、内桜田、芝筋迄 遠近道印製図 寛文10年(1670)刊
「大江戸」の誕生 https://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/edo/tokyo_library/machi/page3-1.html
→[大江戸鳥瞰図] 鍬形蕙林画、東都近郊図 文政8年(1825)刊


文の京デジタル文庫(文京区立図書館)
 ■寛永江戸全図 http://dl.lib.city.bunkyo.tokyo.jp/det.html?data_id=819
 【臼杵市教育委員会所蔵】寛永江戸全図(寛永19~20年)

国土地理院 古地図コレクション
 ■江戸實測図(南)https://kochizu.gsi.go.jp/items/172?from=category,7

同ページの解説要約より:
晩年の伊能忠敬による測量に基づき、縮尺6000分の1(1町を6分)で作成された江戸図の模写図。別名「江戸府内図」と称され、 手彩色で北部と南部の2枚で江戸市中を描いた。本図は、その南半分である。図中の凡例には、文化14年(1817)、高橋景保ほか6名が連署して、 図を作製することになった背景や測量過程などが明記される。北は上野不忍池、東が中川、南は品川宿、西は堀之内妙法寺まで描かれている。

●錦絵(浮世絵)のリンク
国立国会図書館デジタルコレクション

錦絵で楽しむ江戸の名所 https://www.ndl.go.jp/landmarks/
→墨田区(本所、向島) https://www.ndl.go.jp/landmarks/tokyo/sumida.html
→江東区(深川) https://www.ndl.go.jp/landmarks/tokyo/koto.html
→中央区(日本橋、京橋、築地) https://www.ndl.go.jp/landmarks/tokyo/chuo.html

東京都立図書館

TOKYOアーカイブ http://archive.library.metro.tokyo.jp/da/top
→名所江戸百景(83)、東都名所(65点)、江戸切繪圖(27点)

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トウキョウ建築まち歩き──湯島・本郷

不忍池から本郷台地を逍遥する

 不忍池からスタートして、まず本郷台地の東側にある「旧岩﨑邸庭園」を訪れ、ジョサイア・コンドル(1852 - 1920)設計の「旧岩崎久弥茅町本邸」の洋館(1896/明治29)、岡本春道設計の和館(1896/明治29)を見学します。
 岩崎久弥は、三菱財閥三代目の当主。「茅町本邸」というのは、この地がかつては下谷区茅町という地名であり、他に「深川別邸」(現、清澄庭園)と「駒込別邸」(現、六義園)があったためです。当初の敷地は、南は現在の春日通りまで、西側は国立近現代建築資料館を含む湯島地方合同庁舎を含むものでした。
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 続いて、旧岩﨑邸北側の無縁坂(森鷗外の小説『雁』の舞台)を西に向かって上り、上り詰めたところの「鉄門」から東京大学本郷キャンパスに入ります。
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 東京大学は、1877/明治10年、洋学教育機関の「東京開成学校」と、医学教育機関の「東京医学校」が合併して創設されます。その前年末に東京医学校がこの地へ移転したのが本郷キャンパスの始まりで、鉄門(1878/明治11年、現存せず)が正門でした。正面に建っていた「東京医学校本館」(1876/明治9年、設計:林忠恕)は、現在は「小石川植物園」の一画に移築されています。その後、東京開成学校を母体とする法科大学、文科大学、理科大学に加えて工科大学も次々と本郷に移転し、1888/明治21年には5つの分科大学の校舎が本郷に集結しました。
 明治時代末に正門(1912/明治45年、総長の濱尾新が構想、設計:伊東忠太、山口孝吉)ができたころには、街路やオープンスペースが整備された都市的なキャンパスとなりましたが、1923/大正12年の関東大震災によって、そのほとんどが失われてしまいました。
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 現在の東京大学本郷キャンパスを特徴づけているのは、震災復興として建設されたネオゴシック様式の建物群です。東京大学教授と営繕課長を兼任した内田祥三(1885 - 1972)によるもので、その様式は「内田ゴシック」とよばれています。内田による復興計画で建築のデザイン以上に重要なのは、街路と広場によってキャンパスの骨格を構築したことでした。現在に至るまで、本郷キャンパスは時代の要請によりさまざまな増改築や新棟の建設が行われていますが、そこには内田の示した空間のルールが尊重されています。
 建物の内部は、2014/平成26年に復元的に改修された安田講堂と、1996/平成8年に中庭を室内化するなどの改修された工学部1号館を見学する予定です。
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 東大の赤門を出て、「求道会館」(1915)と「求道学舎」(1926)に向かいます。
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 「求道会館」は、真宗大谷派の僧、近角常観の信仰を伝える仏教の教会堂で、2002/平成14年に修復されました。学生寮として建てられた「求道学舎」は、長崎・軍艦島の炭鉱住宅を除いては、鉄筋コンクリート造の最古の集合住宅といわれています。2006/平成18年にコーポラティブ方式の集合住宅にリノベーションされました。改修設計に関わられた近角真一さんは、近角常観のお孫さんです。
 ふたつの建物の設計者、武田五一(1872 - 1938)は、東大卒業後、助教授となりますが、留学から帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)図案科教授となり、その後も関西の建築文化の発展に寄与し、関西建築界の父といわれる建築家です。
 コンドルに始まる東京大学の建築家の系譜は、日本の近代建築の歴史に重なります。彼らの作品を辿ることも、今回の建築まち歩きのひとつのテーマです。


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トウキョウ建築まち歩き──原宿・渋谷・代官山

丘から谷へ、谷から丘へ

 巡り歩く実体験を通してまちと建築の過去、現在、未来への知見を広げ、同時にその成り立ちに関わる方々の思いを知ることで、まちと建築への多角的な視点を獲得することが「トウキョウ建築まち歩き」のねらいです。
 今年は、「渋谷駅周辺開発プロジェクト」と、「代官山ヒルサイドテラス」の見学を軸としながら、全行程を徒歩で巡ることで地形を体感し、行程途中にある建築作品の佇まいを眺めつつ、まちの成り立ちを確認します。
──
 国立代々木競技場原宿口からスタートし、表参道を下り、暗渠となった旧穏田川(渋谷川)を辿って渋谷駅周辺へ。「渋谷ヒカリエ」の上階から、変貌しつつある谷のまちの未来を幻視します。
 そこから今度は道玄坂を上り、松濤を経て、旧山手通りへ。三田用水跡を辿って、西郷山公園で一休みした後、半世紀の年月の中でつくられた丘のまち「代官山ヒルサイドテラス」に至ります。全行程約6kmの道程です。


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