Session19 -災害に対する空間リテラシーのコントロールの方法とは?-
日時:2017/10/22 16:00~17:00
会場:建築会館ホール
テーマ: 災害に対する空間リテラシーのコントロールの方法とは?
ゲストメンター:菅沼聖|山口情報芸術センター/YCAM
登壇者:坪内健、黒田知実、松延浩人、佐藤敏宏、連勇太朗、吉川晃司
【応答文1】
災害に対する空間リテラシーのコントロールの方法とは?
(連勇太朗)
4年前ですので、正直、なにを議論したのかほとんど覚えていないのですが、新型コロナウィルスのパンデミック、世界各地で発生している森林火災、国内で毎年のように繰り返されている土砂災害や洪水など、個人的には、少なくとも当時より災害というものに対して日常的に考えるようになりました。そしてそういうものの背後で動く、グローバリズムや気候変動など、構造的課題についても頻繁に議論されるようになった気がします。
お題である空間リテラシーという言葉に引きつけて言えば、こういった議論を検討し戦略を立てていくうえで必要になる、コンセンサスとなるような空間概念というものが今のところ全くないように思います。ウィルス、二酸化炭素、放射能、所得格差など、不可視のアクターを内部化したうえで、空間というものが再びどのように語りうるものになるのか個人的にはとても興味があり、今後深く考えてみたいトピックのひとつです。
連勇太朗
明治大学専任講師、モクチン企画代表理事、@カマタ共同代表
【応答文2】
記録づくりのすすめ–東日本大震災、福島第一原子力発電所の放射能災害に遇って
(佐藤敏宏)
(1)はじめに
与えられた題に答える前に、あるべき記録がない、そのことをお知らせすることで応えたい。そう思うのは東日本大震災と福島原発事故の多重災害に遭ったことで、身の回りにあるべき記録がつくられ保存されていない、単なる記録不存在の事実に日々つき当たっているからだ。日本史上、あってはならない福島原発事故によって放出された放射能が沈着した大災害への経緯も、また福島市民などを含み災害対応に当たった人々の主体的な記録を探し出すことも、思ったようには進まない。わずか10年ほど前の記憶すべき出来事の記録がないことに遭遇し、不作為の人災にも遭っていると思うからだ。
人が放射能災害に遭えば放射能から遠ざかるしか手だてがない。放射能がどこにあるのか?人は計測器を使わなければ分からない。軽い放射能は風に乗り数百キロ飛んでしまうので、刻々と変わる風雨や風雪の有無を考慮しながら避難しなければならない。人は地形や街区に対応する方向感覚などの視覚確認可能な事態にたいしてのみ、空間的思考能力の教育は可能だろうが、目で確認することができない放射能や、肺結核、エイズ、マラリア、新コロナなどの微細なウィルスの存在を知覚することができない。人の知覚の限界によって浪江町民が町内で最も放射線量が濃厚、線量が多い津島地区に避難してしまったことは周知のことだ。
福島原発事故による放射能の存在はSPEEDIを生かした予測によって避難民に知らせることになっていたが、東京電力から放出された放射能の量が報告されず「放出源情報が無い場合は避難情報として住民に伝える必要はない」との理由によって、予測機能をもちい避難経路の選択に生かすことができなかったという。(註1)
米軍は3月17、18、19日に横田基地から飛行機を飛ばして飛行観測をおこなっている(註2)。3月19日の段階で福島県民のだれが、米軍がつくった汚染図を知っていたのか?誰一人として知らなかっただろう。福島原発事故後10年過ぎた現在でもSPEEDIの結末を知り、今後の災害に生かす準備を整えている建築人は存在しないのではないだろうか。
災害時に空間リテラシーのコントロール方法は、正しい情報を元に電子機器を働かすことで教育可能だとは思うが、電気がなければ電子機器は動かない、スマートフォンも使えないという単純な因果からはじまり、SPEEDIの案件を振り返ると、机上では可能でも、災害現場で生かすためには乗り越えるべき課題が多重にあることは分かるはずだ。机上の学問だけが成り立てばいいのが建築ムラというなら、その方向に展開されるのもよいだろう。
SPEEDIの機能不全は検証記録がない、マスコミが報道しないことで主権者は知り得ないことが理解できるだろう。災害時に限らず記録をつくらなければ、民主主義のもとにある各行政機関の人々は健全に活動や組織が機能することは不可能だ。日々、行政文書などをつくり保管し継承することでのみ、後の人々が検証可能とするための文書記録がなされる。公文書を含む記録を保存する義務に自覚的でなければならない。人は間違いを行い続けるわけで、間違ったままの記憶が残されたならば後世の人々の知識や記憶の誤謬を放置することになる。人々は無謬では存在しえないし、間違いを許し合うことで徐々に身の回りの社会を改善し続けなければいけないと考える。
記録を作らない人々は、自分は間違いを起こさないと考えているのか、あるいは間違いを起こしても隠蔽しておきたいと考えるのか、その二つのうちのどちらかだろうか。放射能災害に遭ってその経過事実の記録を更新し続けることで、事実に近い記憶をつくりだすことがなせる。次世代、あるいは被災者以外の他者とともに継承することが肝心だ。それがなされていないのが10年後の2021年の現実だ。
「災害に対する空間リテラシーのコントロール方法」を私は編み出せる状況には至っていない。現状のまま、お題に応じ提示したならば、ゆがんだ土台の上に、ゆがんだ記憶の家をつくり継承させてしまう愚行をすることになる。そういう簡単な事実を確認することから始めたいのだ。まずは3・11の記憶づくりのために必要な事実の記録が無い現状を共有しておきたい。そのように考えたので的を射ることを書けるとは思わないが、依頼を引き受けた。
(2)災害体験の記憶、多重災害体験へ
携帯電話(スマートフォン)を開き「地震 日本 年表」と打ち込むと1600年間に起きた地震の日や死者数などが分かるサイトに案内される。そこで私が生まれた1951年以降、死者がでた地震を抜き書きし私の記憶を見る。それは私が体験した災害の記録がなければ、身の回りに暮らす次の世代へ私の災害記憶を伝えることができないからだ。
昨今、政府内では議事録が作られなかったり、記録が改ざんされたりし、主権者に事実が公開されず、その結果、歪曲された記録が歴史として継承されるという惨状がなんども繰りかえされた。民主主義を葬り去るような行為が一部の政治家によって日常茶飯事に行われている。嘆かわしく非倫理的な存在を確認することができる。真実を誠実に答えようとしない、上から目線で処置し政府を私物化している政治家が多数存在し、多くの人が眉を顰めている。政治家たちの虚偽行為を支えてしまう行政マン達の存在や、それらの堕落の真実・事実をマスコミが伝えることは少ない。政治・行政上の真実にもとづいた記録を保存継承する行為を放棄する人々の多さは、次世代に対しある種の人災を与えることになる。
そのことは東日本大震災で福島原発のディーゼルエンジンが水没し、外部電源用に据えていた鉄塔が倒壊することで二重の防御が破れ、原子炉を冷やすための全電源喪失が起きたことでも知り得る。発熱し続けた原子炉は格納容器を破り、日本各地に放射能を沈着させた。福島県内では164,865人の原発難民がうまれた。事故から10年6ヶ月後の2021年9月現在でも34,988人の避難者数がある。(2021年9月10日福島民報新聞11面)
3・11に起きた地震とその後の原子力発電所による人災と言ってもいいだろう。多重災害に遇い暮らし続けているが、私の体験で痛感することは、私が生きている身の回りの社会には、記録を保存継承する意志がきわめて薄弱であるという事実だ。福島県に原子力発電所がどういう議論、つまり歴史を経て10機も設置され、3・11による原子力発電所の事故に至ったのか。それらの記録を探し出し、当時の事実を再確認することや、原子力発電所が日本で作られる詳細な議論の議事録に基づき事実を探し出すことは、かなり困難で時間も要することだ。共有すべき記録(原発通史)が作られていないので、お前の無駄な行為は当然の報いなのだという人もいるように思う。
私が東日本大震災に際し、私が得たささやかな記録探しや被災体験をもとに記し、災害に直面したままなので、お題の「空間リテラシーのコントロール方法」を手にすることは不可能であると確認し、一歩を踏みだしたい。そうした上で今後起きると想定される南海トラフ大震災や関東大震災などの巨大地震、あるいは気候変動による大水害、さらに加えて新・新コロナのような未知のウィルスの出現による、世界的パンデミックに際し、どのような対策を持ち世界の人々との連携によって「人間の終焉を防ぐてだてはあるのか」、このままの暮らしを続けていれば人間が終焉してしまうだろうから、ささやかでも抗ってみたい。
(3)私的な震災体験を振り返って
1964年、新潟地震。東京オリンピックが開かれた年で、木造校舎の中での揺れを体験したが何か起こったのかは後に知ることになった。それはテレビが普及していたことによってマスメディアのニュース報道を経て記憶がつくられた。記憶の内容は地盤の液状化によりコンクリート共同住宅がまま倒れているということだった。
1968年、十勝沖地震は高校の授業中であったが、突然コンクリート3階建ての建築物がぎしぎしと音を立てていた、そのことを記憶しているが。高校生は忙しい、あそび惚けていたのだろうか、TV報道ニュースに関する記憶はない。
社会人になった1972年頃だったと思うが、地震発生のメカニズムの講習を受けた設計部の同僚が「ハワイが年間数センチずつ日本に近づいていて、やがて日本になるよ」なんて冗談を言っていたのを聞いた。地震はプレートがぶつかり合い歪みが生じ限界に達すると地震が発生すんだと教えられた。地震のメカニズムを初めて聞いた瞬間だった。今ではそんなことは小学生でも知っているだろうが、私は20才頃までは地震が起きるメカニズムは知らなかった。
1978年、宮城県沖地震の時は都内で建築設計に携わっていたのだが、マスメディアの報道で建物の被害を多く見た。その後、地震によって倒壊したことを生かし新耐震といわれる建築基準法の改正がおこなわれた。仕事に直接影響を与えた地震だった。
1995年、 阪神・淡路大震災の揺れは体験せず、TVのスイッチを入れたら三宮周辺が燃え上がる映像をみて、釘付けになった。その後、応急仮設住宅の問題、倒壊建物の公費解体、さらに災害の記憶継承の課題を学ぶことになった初めての地震災害体験だった。
2011年3月11日に起きた東日本大震災による一連の災害は、現在も解決されることなく、身近な問題と事態として受け止めていて、体験し終えたという記憶は生まれていない。災害に遭遇した人々の活動に関する歴史書などを手にしていたので、宮城沖地震は40年前後で発生すると覚えていた。当然のように米や味噌、水、燃焼の薪を備蓄していたし、原発事故の可能性も考えて放射能をなるべく吸い込まないためにと、サージカルマスクN95を買い保存していた。今世紀に入ると、災害の情報や過去の記録はweb情報中心に得る暮らしとなっていた。
東日本大震災に遭い、それまでとは異なることが起きた。それは仙台城の石垣が崩れ落ち、国宝の大手門と脇櫓が被災する。と、同時に数多くの未指定文化財建築が被災したことで、古建築の保存支援ボランティア活動をすることになった。
福島市内の建築文化財が応急度判定員によって赤紙を貼られたことを機に、早々に公費解体されて地上から消える、建築系の面々が起こした人災のように重なって見えて、強い喪失感を抱くことになった。
それらの細かな個人的体験をもとに、東日本大震災によって災害時の文化財の保存継承活動へも、目が向くようになった。数年前、文化財保護法が改正され都道府県が要綱を策定し、景観をふくむなど未指定文化財の利活用や保存は、市町村が計画し実施をすることになった。
2015年、熊本地震の揺れも被災地も私は体験していない。国宝である熊本城が被災したことで、文化財の保存継承が熊本の人々の心の復興に寄与することが周知される機会になった。新基準で造ったばかりの住宅が倒壊することで、さらに耐震性の高い建築を要求する社会にもなった。
(4)多重災害体験の記録を積み重ねよう
災害体験記録を積み重ね続けなければ災害に対する空間のリテラシーを共有することがかなわない。では、具体的に3・11東日本大震災の記録は作られ継承するため、行政や市民による作業の積み重ねがあったのだろうか、無かったのか、その点を省みれば対応手法の端緒が分かるように思う。
具体的に見てみよう。福島市に起きたアート作品・サンチャイルド像設置騒動を体験してみて分かったことを例にみてみよう。
それは、東日本大震災のような巨大複合災害に遇い、私を含めた被災民などは、どのように記憶をつくり、共有するための記録作りへの姿勢、さらに重ねれば、人々の共有すべき記憶継承をつくりだすための、被災当事者の記憶の掘り起こし作業のための努力と実行への気構えが、被災行政にも被災市民にも無いことを自覚する、希な機会となってしまった。
巨大複合多重災害下では予想できないことがたくさん起きる。そのうえ目の前の出来事の因果関係をとらえ事実を知るための手がかりが、どこにあるのかさえ分からなくなってしまうのが災害当事者だ。だから事後に時間を重ね記憶をつくり続ける努力と行為を重ね続ける以外に、次世代のために記憶継承するための生きた記録は作れない。
何の前ぶれもなく設置されたわけではない。ヤノベさんと関係者たちは設置の数年前から福島を訪れていた。福島市長は数ヶ月前から設置場所などを練っていたことはわかる記録がたくさんある。さらに公文書開示請求申請によって得た公文書や、市民とヤノベさんとの対話など各種記録をつくることで、ようやく分かったことも多い。
設置記者会見は突然、2018年7月6日福島市役所で開かれた。内容は8月3日設置公開のための会見であり、福島市市長と作家のヤノベケンジさんによって福島駅そばに設置が発表された。像の名前は「サンチャイルド」という。市長は「原子力災害をうけた福島の再生を願って制作された作品」だと語っていた。が、2011年11月22日(動画日付による)大阪万国博覧会場跡地に初めてサンチャイルドを設置したときの動画が公開されていたので、文字記録にして読んでみると、設置発表会場でヤノベケンジさんは福島の再生を願って制作したとは語っていず。「これは希望を表すモニュメントです、綺麗な空気を吸っても生きていける世界を求めて、左には小さな太陽という希望の灯火を携え、二本の足でしっかりと立ち上がって遠い未来を見つめている、そういう像です」と語っている。福島市長の発表内容は我田引水気味に脚色されていることが分かる。
さらに福島市市長はこの像を設置するにあたり「私は、原子力災害を風化させることなく、復興創世に取り組む福島市、福島県の復興のシンボルとなると喜んで寄贈いただくことにしました。」とも語っていた。が、設置後苦情が寄せられると同時に共産党市議団からは、「福島の現状とは乖離している、放射線量が000であることはあり得ない、なぜ防護服なのか」など、巨大なモニュメントを復興のシンボルとするのは不適切であるなどの理由によって、早急に撤去要望書が提出された。そのことを端緒にマスコミが多量に報道したことで、サンチャイルド像設置事件は世界に向けても発信された。
8月28日に市長によって会見が行われ撤去が発表されると同時にヤノベさんからも展示の取り止めについての発表がなされた。今、分解されたままのサンチャイルド像は福島市内のとある倉庫に保管されている。
この事件と騒動で、巨大複合災害に遇うと、被災当事者としての私は記憶づくりのための羅針盤をもつことは難しいことも分かった。真実の記録をつくり続け次世代の記憶づくりに貢献するための道筋も少しは見えているが。なんとか記録にしておきたいと思い、2018年11月6日から福島市役所に公文書開示請求申請を54本提出し、関係資料を手に入れた。だが、設置に至るまでの関係者主体による記録(肉声や思い)が全く残されていない。市長が発信するツイッターログには、関係者が満面の笑みで集い語った宴会時の写真が投稿されていたので、その日の市長の行動録と言動録の記録を読みたくなり、公文書開示請求申請を提出してみた。すると「ツイッターは個人の活動であり、市の公式な広報ではないので記録が不存在」とのこと。会合の様子は関係者が撮ったものだと推測したのだが、その撮影者も含めた、すべての記録不存在だということだ。
設置のための会合は設置場所を含め数度開催されたことは、制作者の証言から得られた事だが、立ち会った人間が誰か、何を語りあったのかなど議事録が作られてないので、公文書として手に入れることはかなわなかった。
でも何が起こったのかを知るために、制作者であるヤノベケンジさんや関係者にも聞き取りをしていたが、関係者の誰に会い、そこでどのような話し合いがなされたのかを知るための制作者自身の記録がない。事後に問題になったときに責任追及されるようなことになるので、意図的に議事録を残していないのでは、などと邪推してみたくもなった。
この件に関し私が聞き取った肉声はすべて文字にしてあり、いつでも公開できる。だが、単なる聞き取り記録は制作者の記憶語りなので、現段階では伝えることはできない。サンチャイルド事件・騒動の大枠は分かっているのだが、憶測混じりの記録を提示しては間違った記憶を積み重ねることになるので、今は公表を控えている。
(5)母校が廃校に
さきに書いたように原発事故を想定し、その対応のためにサージカルマスクは用意していたのだが、数が数枚と少なく、長期の放射能には耐えられず、さほど効果の無い市販のマスクを着装するしかなかった。日々くらす身の回りの的確な放射線量を計測する機器がない。支援物資で送られた外国製の線量計が届いたのだが高数値を示すだけで、正確な数値なのか、それさえ分からない有様で「線量高いなー」と単に怯えるだけだった。自主避難すべきだと思える高線量の数値だと思った。
その後6月17日に簡易放射線計によって測定された数値が福島市から発表された(註3)。その数値は1時間あたり1.8μsvと高線量で、やはり自主避難にあたいする数値だと思った。だが家人の病の状況を考えると、とどまる方がよい選択だと考えなおした。しかし、使用済み燃料などを含む事故後、原発現場処置の不手際によって、再び放射能がまき散らされた状況に堕ちれば、避難指示があるかもしれないとも想定していた。その時は自発的帰郷者(サマショール)になると覚悟を決めて暮らしていた(註4)。
翌年には0.83μsv/h、2013年には0.51μsv/hと下がり続けた。幸運にもサマショール扱いされることにはならなかった。チェルノブイリ法によると、かの国では年間1ミリSV超で移住の権利が発生すると風聞を得ていた。福島の事故発災時の20ミリsv/年でも避難指示は出さないと聞いて驚いてしまった。私は原発作業員並の扱いだったわけだ。もし避難する権利を与えたなら福島県からは原発難民が100万人超えになっていただろう。先にも記したが現実の避難者数は164,865人だった。2021年7月現在避難者数は34,498人だ。
記録を残す話に戻ろう。原発事故・発災直後から、自分が何を思いどう行動するのかを自己観察するために、感情の変化が起きるたびツイッター投稿機能を使ってログを積み重ねていた。現在もweb日記とTwilogであの当時の行いと思いを再現できてしまう。なんて恐ろしく生々しい記録を保存したものだと、あきれたりするのだが、日本人による日本人への放射能沈着事件だし、日本史、いや世界史に刻まれるべき原発事故なので、そのことに向き合った自分自身の記録は生きている間にwebから、消してしまうわけにはいかない。
2012年4月16日、東電から被災者と認定され、家族一人当たり8万円の賠償金が支払われた。その時の思いは省略するが、私が育った古里は隣接する地域が指定地域になったことで自主避難者が相次ぎ、2016年度末をもって母校は廃校になった。そのことは後々、私の生まれ故郷から人が消え、山河だけが残ることを意味している。被災者に認定された人々の多くは、金銭でもって賠償されても、貨幣で獲得できない多数のものを喪失してしまっている。喪失の無念は被災者自身が亡くなるまで消えることはない。
さらに、2013年6月19日「原発事故によって死者がでている状況ではない」と高市早苗・自民政調会長が発言したり(2021年現在関連死者数2.330人)。2014年6月16日の石原環境大臣は原発事故によって発生した汚染土の中間貯蔵するための地元との交渉で「最後は金目でしょう」と発言したことなど、政治家を筆頭に、被災民は数次の言語災害にも遭ってしまうのだ。そのたびに無念の深みを増し、やるせないやら救われないやら、浮かんだ不快な気持ちを解消できない。東電から被災者として認定されたことで、そのような数次被災が多く存在していることも原子力災害史に記録されるべきだ。
(6)東京電力福島第一原子力発電所設置の記録はつくられ記憶は保存継承されていたのか
事故前に日本で原発通史は編まれたことがあったのだろうか、東京電力福島第一原子力発電所から放出された放射能沈着に至るまでの道筋は、どこまで辿れるだろうか、あったならば、そのテキストは事実を記録しているのだろうか。
原発事故後、県立図書館やweb古書店で探しながら少しずつ関連書籍を読んでいた。2021年2月13日に大きな余震に遇い、原発事故に遭遇した福島県内の人々の肉声を記録しておこうと思い立った。
初めに、建築学会を受賞された福島県元職員の方々の聞き取りを始めている。野の者がする仕事でもないのだが、震災時に職員の方々はどのような思いの元に活動していたのか、それを知りたくなった。簡単にいえば応急仮設住宅を支給しなければいけない立場の人たちの声を記録したいという思いだ。まだ数名の方を6時間弱聞き取ったり、聞き取った後、肉声を文字にした記録を眺めたりして話し合っているところで、関係者の聞き取りが済むには2年ぐらいかかると想定し、行っている。
そこで気付くことは安全神話と言われた環境下では、原発事故が起こることを想定できなかったことだ。さらに事故が起きていても、さほど気にしている様子もない。私のように原発事故を想定してマスクや食料を確保していた人は存在しない、という事実を知った。ではなぜ安全神話が生まれたのか、その経緯を知ることでメルトダウンの道が拓かれてしまったことも、少し書いておこう。
原子爆弾と原発は兵器にするか平和利用か、それが異なるだけで大きな熱エネルギーを得る原理は同じだ。濃縮したウランを一気に爆発させれば膨大な量のエネルギーを放出させ、辺りを燃やし尽くせば原子爆弾だ。不純物を含んだウランを、だらだら反応させ続ければ原子力発電所のエネルギー源になる。その差異だけだ。
1945年8月6日、9日に広島と長崎に原子爆弾が投下され多くの犠牲者が出たことは誰でも知っていることだ。しかし、8月17日に第三の原子爆弾投下を準備していたことを知っている人は、ほとんどいない。また、原爆投下地としてアメリカ軍は米兵の捕虜がいないことで、広島を最初の投下地に選んだことを知っている人もいないだろう。当然のように他の原爆投下の候補予定地を知る人もほとんどいないだろう。日本にある戦前の記録も探し当てたとしても原爆投下候補地を示すことはできない。
原爆投下に関するそれを知ることができた者は、1993年9月22日『資料マンハッタン計画』が大月書店から刊行され、760頁の資料を手に取った人だけだったろう。私も福島第一原子力発電所から放射能を浴びせられなければ、この日本語に訳された分厚い本を手に入れ、目を通すことはなかっただろう。
『資料マンハッタン計画』は1939年8月2日、アルベルト・アインシュタンからローズヴェルト大統領にあてた書簡、資料1からはじまる。1945年8月14日、グアンム ― ワシントン間の無線テレタイプ会談、資料243で終わる。さらに補録として原爆投下後の広島、長崎の残骸が埋め尽くす状況写真も印刷されている。無惨にも蒸発してしまった人影が石段に投影された写真なども掲載され、原爆の威力と無差別爆弾の力と悲劇を想像してあまりある記録集だ。
『資料マンハッタン計画』が刊行されるまでには、原爆投下から48年の月日が流れていたことを覚えておいてほしい。アメリカ軍が記録し保存していた資料とはいえ、48年後に原爆投下への道を知ることの意味は大きく、福島第一原子力発電所の事故原因と、そのための用地開発から廃炉までの、敗戦から半世紀を超えるながい原発経過史を私たちはもっていない。自ら記録をつくりつづけ、次世代の記憶として渡す義務があると思ってしまうのは、十分に重たい『資料マンハッタン計画』の存在からの影響だ。(興味のある方はぜひ最寄りの図書館などで見てほしい)
事故から7年半ほどだった、2018年8月22日だと思うが、経産省資源エネルギー庁から、「日本における原子力の平和利用のこれまでとこれから」がweb頁で公開された(註5)。内部で作った資料なので、次世代が共有すべき記録なのか、と疑問を持っている。それは2016年3月1日に『原子力政策研究会100時間の極秘音源―メルトダウンへの道』を手に入れ、読んでいたからだ。
この本は3・11直後NHK ETV取材班の増田秀樹、松丸慶太、森下光泰の三人によって企画された「シリーズ原発事故への道程」の取材記録だ。つまり福島第一原子力発電所の事故がおきなければ、世に出ることはなかった元官僚、商社、電力関係者、いわゆる原子力ムラの人たちが、秘密裏に会合を開いた、原発黎明期の裏話と内輪話の記録集だ。関係した政治家が招かれた様子がないので、強引な政治家たちを告発しているような内容だと受け止めることは可能だろう。
私が100時間の極秘音源を借り受けることができれば、4ヶ月ほどで文字にしてしまえそうな音源量だ。かれらはそれを丹念に聞き取り、分析し、番組を構成し、関係者を取材することで2011年9月18日に放映したという。(番組の一部がwebに落ちている)事故が起きなければ番組の制作放映も、取材記録集の刊行もなされなかったわけだ。不幸中の幸いとも言えるだろう。
本の刊行は2013年11月だから、本作りに2年間を費やしたことになる。だが、現在は誰でも手にとって東京電力福島第一発電所が福島県の大熊町建設されるまでの裏面史、事実、それらの一部を手に取り読むことができることになった。(註6)
音源の持ち主は、旧通産省および旧科学技術庁の官僚だった伊原義徳(いはらよしのり)さんだという。会の名称は「島村原子力研究会」といい、主催者は伊原さんの上司であった旧・科学技術庁の官僚・島村武久(しまむらたけひさ)さんであり、開催会期は1985年から1994年までの9年間で、島村さんが亡くなるまで続いたという。その音源は、推測するに月に1回ほどの間隔で、原子力ムラに関係したゲストを招き、島村さんが聞きとり役をしていたように思う。
取材記録集の内容は三部構成で、第一部「置き去りにされた慎重論」、第二部「そして安全神話は生まれた」、第三部「不滅のプロジェクト―核燃サイクルの道程」だ。
(7)福一建設の裏話を知ると日本人は総無責任だと痛感するだろう
もっとも驚いた記述内容は東京電力の豊田正敏さんの談話だった。少し長くなるけど拾い書きしておこう。
「タービン発電機は復水器があって、ポンプで大量の海水をくみあげて冷やしているわけです。だけど設計されていたポンプには、35mの高さまで海水をくみ上げる能力はなかったんです。せいぜい10m位が限界だった。ターン・キー契約は向こうにお任せしますということですから、追加要求をこちらから出したらね、それこそひどく高い追加費用を要求されることになっちゃうんですよ。向こうに任せるからやってくれるんで、こちらがこれをこう変えろとか、これを追加しろとかいうようなことを言ったらね、途端に高い値段になる」。(209頁)
そこで東電が下した判断は海抜35mの大地を25m掘り下げ海抜10mまで掘り下げることだった
福島原発設置の設計図は、GEが東電に先行して契約していたスペインのサンタ・マリア・デガローニャ発電所の設計のまま(コピペ)でつくるなら、設計図面もまま使えるので安くしますとGEが言ってきた(208頁)ので、それが決め手になった、と言う。ターンキー契約とは、設計、建設、試運転から営業運転開始まで全責任をもって実施し、安全な原子力発電所を引き渡す。さらに燃料調達および運転員教育訓練費用も含む契約だ。ようするにGEに全てお任せし、完成したら始動のためのキーを回せば、商用原子炉が稼働しだすという契約内容だ。原発事故関連死者の2,330人が聞いたら生き返り、豊田正敏さんをはじめ東電に怒りをぶつけたくなるような内容だ。海抜35m地盤に造ったら契約を覆すことになり、意味がないという。
さらに豊田さんは(211頁)「ディーゼルエンジンがタービン建屋の中にあることに気がつかなかった」と語る。「設計はGEに下請けのエバスコ社がやっていたんだけどもエバスコ者の設計ミスでしょうね。原子炉の安全上必要なものである非常用電源を供給するディーゼルエンジンを、機密性がなく、しかも海側に建っているタービン建屋の中に置くこと自体がおかしい。私が気付かなかったのも何かおかしいんだけどね。私だけじゃなくて誰も気づかなかったというのも、本当なのかなとも思うんだけど、ともかくそういうことです」
拾い書きは以上だが、以下、第一章の要点のみを羅列しておく
1)正力松太郎や中曽根康弘が唱えた原子力平和利用の経緯のいかがわしさ。
2)CIAなどに支援を受け、読売新聞・日本テレビなどのマスコミが開いた原子力平和利用博覧会開催によって、原子力は暮らしに役立つ発電だという、世論誘導の巧みさ。
3)科学者の知見を軽視する政治家の存在は現在にも通じるが、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹さんの考えを受け入れることが無かった政治家・正力松太郎の強引さ。
4)正力、中曽根などの政治家の意を受ける官僚たち、電力会社の社員たち、商機到来と原子炉輸入に群がる商社マンたち。かれらは原発の知識が全くない、見たこともないなか、イギリスとアメリカの技術を輸入し建設し、商業運転開始に協働してしまう無謀・無責任。
第一章で印象にのこった点を羅列してもこれだけになる。2016年に刊行された廉価版『原子力政策研究会100時間の極秘音源―メルトダウンへの道程』を手に入れて読んで以降、今後生きるための必読書となった。一つの災害の事実を記録し保存継承することの重要な意味と、その困難さも教わり続けている。
(8)最後に
IT技術を駆使し多重災害による災害を少なくしようとする努力は理解できても、災害被災当事者に知見が伝わり活用されることは夢であろう。その前に現状を再確認し合うために事実の記録なしには「災害に対する空間リテラシーのコントロール方法」を編み出せないと想像する。
偶然手に入れた東京電力福島第一原発事故災害に関係する資料などをざっと眺めて、自習は続けるしかない。興味をもつ人が今後もZOOMなどを共有し語り合ったり、そのための資料を集めるため共同作業を経て、3・11に関する災害記録を作り続けたいと考える。災害時に限らず日々記録をつくり保存しなければ、人命を守るべき民主主義のもとにある各行政機関が健全に機能することは望めなさそうだ。
註1:2013年4月11日、第35回ふくしま復興支援フォーラム「放射線影響予測システムSPEEDIとは?なぜ機能しなかったのか?あり得る次の事故で有効活用することは可能か」講師:佐藤康雄さん。講演内容記録は筆者佐藤のwebサイトにある。http://www.fullchin.jp/f/spe/11/11.html
註2:原子力安全・保安院が外務省を通じて入手した情報の3月20日受領分(原子力規制委員会HPより)の図が註1の会で示されている
註3:2011年3月15日18時24分、福島市の放射線量は24.24μSV/hだった。福島市災害対策本部刊行『東日本大震災の記録―発災から復興に向けた取り組み』2014年3月版より
註4:自発的帰郷者(サマーショル)とは、チェルノブイリ原子力発電所事故後の立ち入り禁止区域に自らの意志で戻り暮らしている人々のこと
註5:経産省資源エネルギー庁「日本における原子力の平和利用のこれまでとこれから」https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/tokushu/nuclear/nihonnonuclear.html
註6:3・11以前に刊行され原子力関連書籍は、佐野眞一著で1994年刊行、原子力の父と呼ばれた正力松太郎の評伝『巨怪伝・上下』。2008年刊行、有馬哲夫著『原発・正力・CIA』が私のお薦め本だ。
佐藤敏宏
1951年福島市生まれ。福島県立工業高等学校卒業後10年間リーマンショックで倒産した中堅ゼネコン東京支店設計部勤務。1982年からTAF設計を主宰し建築あそびなどの活動とmy設計開始。2000年建築設計に興味がなくなり建築あそびと若くて無名な独立建築系の人々を対象に聞き取り活動を始める。2011年東日本大震災に遭い東電より被災民と認定される。2021年、zoomに出会いmyブームとなり毎月4日を俺様zoom日と決めゲストを招き語り合い後、web頁記録を作成し公開し始める