学校建築にこれからの教育は担えるか

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建築夜楽校2023

学校建築にこれからの教育は担えるか

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COVID-19以降のリモート授業、ホームスクーリングなどの発達により、学校という空間の意味は変質しています。一方、現代では多様性や自主性などを身につけるような教育が推奨されていますが、同時に各教員や文科省の思惑、選定される教科書によって対立する内容が教育されることも起こりえます。空間的にも教育的にも矛盾した状態が簡単に引き起こされうる教育という現場において、どのように建築がその役割を果たせるのか、またこれからの日本はどのような教育を対象として空間を考えていくべきなのでしょうか。
さまざまな学校建築を設計してきたシーラカンスアンドアソシエイツの赤松佳珠子氏、空間のあり方を教育論と結びつける社会学者の牧野智和氏、世界の学校建築を比較研究されている垣野義典氏の3名をゲストに招き、建築がこれからどのように教育に関与できるかを考えます。ぜひ、ご参加ください。

Photo: Makoto Yoshida

開催概要

日時 2023年10月11日(水)18:00~20:30(開場17:30)
開催地 建築会館ホール(東京都港区芝5-26-20)およびリアルタイム動画配信
講演者 赤松佳珠子(シーラカンスアンドアソシエイツ代表取締役・CAtパートナー/法政大学教授)
牧野智和(大妻女子大学教授)
垣野義典(東京理科大学教授)
モデレーター 山本 至(itaru/taku/COL.共同主宰)
対象 どなたでもご参加ください。
定員 建築会館ホール 100名(申込先着順)
動画配信 制限なし(事前申込み不要)
参加費 無料
申込方法 建築会館ホールへの参加者:上記の「お申し込み」ボタンから専用フォームにアクセスのうえ、お申し込みください。
視聴方法 動画配信での参加者:本会YouTubeチャンネルから開催当日にご覧ください。
https://www.youtube.com/aijgakkai1886/

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開催レポート

 「学校建築にこれからの教育は担えるか」と題して、10月11日(水)に建築会館ホールおよびYouTubeによるリアルタイム動画配信にて開催した。参加者は計722名(うち動画配信664名)であった。
 さまざまな学校建築を設計してきた赤松佳珠子氏(シーラカンスアンドアソシエイツ代表取締役・CAtパートナー/法政大学教授)、空間のあり方を教育論と結びつける社会学者の牧野智和氏(大妻女子大学教授)、世界の学校建築を比較研究されている垣野義典氏(東京理科大学教授)の3名をゲストに呼び、学校建築について考えるシンポジウムを行った。シンポジウムの前半には、3名の講演者が各20分間のプレゼンテーションを行い、後半では講演内容を対象にディスカッションを行った。
 赤松氏は、自ら設計をしてきたいくつかの学校建築を事例に取り、実体験としての学校建築論を提示した。教育や学校建築を語る際によく巻き起こる、ソフトとハードの問題を赤松氏は「内的事項:教育そのもの、どのような教育をするか」と「外的事項:学校施設そのものや先生の赴任など」という2つの区分に分け、どちらが優先されるべき事柄でもなくその両輪が必要であると説く。建築というものは仮に空間的な仕掛けをルーズにしていても、そこには何かしらを規定しうる力が働く。規定力が弱く見える建築はあっても、弱い建築はない。重要なことは規定をしているかではなく、どういう規制をしているかである。そのことを前提に赤松氏には過去に設計をした複数の作品を紹介いただき、どのような仕掛けによってどのような規制を施したか、それによって空間をどのように多様に作り上げたかを説明いただいた。
 牧野氏は、自著である『創造性をデザインする:建築空間の社会学』を引用しながら、学校建築の歴史的背景および社会学者という立場からの質疑を他のお二方に投げかけた。前段の赤松氏の内的事項、外的事項の対立に照らし合わせるように、牧野氏は社会学的文脈における「技術決定論:建築技術によって人々の行為は決定される」と「社会決定論:社会的文脈によって人々の行為は決定される」という二項対立のなかで建築家の取り得る立場についての質問があった。例えば、建築家においては一見社会決定論の立場をとるような人もいるが、例えばアトリエワンの塚本氏の「振る舞いの生産」がいう技術でも社会でもない個別解というものにも、実際には人をこうしたいというある種の形式があるのではないか。このようなことを踏まえて、牧野氏は5つの質問事項を提示し、これらの質疑は鼎談での議論時に取り上げた。
 垣野氏には、海外の学校建築を例に取り、他国と日本の教育現場の比較を紹介いただいた。例えばフィンランドでは授業中は教室にとどまるが、休み時間はすべての生徒は屋外に追い出される。他方で日本の場合は授業のカリキュラムとして敷地全体を使う。どの時間帯にもいろいろなところに子どもがいる状況が生まれているという。フィンランドでは授業や学習は校舎が背負い、自由時間は屋外が担うという明快な役割分担がなされているが、一方、日本は1日を通して敷地全体を使うため、空間的装置が重要になるという。もともとフリースクールを研究していた垣野氏は、どのように登校拒否の子たちが空間で過ごしているかを研究対象としていた。学校は計画して施工竣工まで5年かかるが、フリースクールでは瞬時に家具などの環境変化が起こる。つまり前述の日本の教育現場の例であげられた打瀬小学校の柱に該当するものが、家具の配置変えによって突如現れたり消えたりするということだ。このように教育のあり方と空間の連動は明らかであるが、フリースクールの事例を通して、その空間というものが建築のように不動なものである必要があるかには疑問が残る。

 その後、3名のプレゼンテーションをもとに鼎談を行ない、最終的に議論は学校そのものの是非にまで及んだ。同じ公立学校でも、都市の中の学校と自然の中の学校というのは教育における立ち位置自体が根本的に異なる。学校の周辺環境が都市であるか、自然であるかによって、学校建築が担えることの幅が異なってくる。垣野氏はヘルマン・ヘルツベルハーのモンテッソーリ教育を行っている学校を訪れたところ、授業の大半がタブレットによるものになっていたという。すなわち周辺環境が何であるかを超えて、技術の進歩によって教育が均質化するようになっている。また牧野氏によると、我々は一見、学校内の校則が最も厳しかった年代をヤンキー文化が台頭した80年代くらいと思いがちであるが、実際は今の方が強くなっていると述べる。オープンスクールの思想から空間が自由化しているにもかかわらず、一方で規律訓練型の教育色が強まっていることの相関性は不明であるが、自由に見える環境や建築が必ずしも自由な振る舞いを許す規律のもと運営されているとは限らない。そこから見えてくるものは、そもそも学校は必要なのかという疑念である。
 例えば地域社会というものは学校たり得るし、そもそも少子化で子どもの数が3人しかいないようなところでは、学校よりも地域から与えられる学びや刺激の方が大きい。その時に学校がそれらと差異化されうるのは、科目、カリキュラムという規律があるからに過ぎない。偶発的に何かに出会うのではなく、数学を勉強しているという目的によって人が集う。やがて数学を勉強することが学校の目的になる。それは都市、自然に限らず、公共空間が持つ偶発的な出会いを許す場ではなくなるということである。となると、その目的である科目の作り方や出会い方をもっと多様化していく必要があるのではと私は考える。

[山本至/itaru/taku/COL.共同主宰]

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